追いかける幸せと、満ちる幸せ

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ほしかったものを、手に入れた。昇進した。買った。認められた。

そのときは、たしかに嬉しい。でも、その嬉しさは、思ったより早く色あせます。しばらくすると、また同じ物足りなさが戻ってきて、気づけば次の目標を追いかけている。手に入れても、手に入れても、満ちた感じが続かない。そして、こう考えます。まだ満たされないのは、手にした量が足りないからだ、もっと頑張らなければ、と。

けれど、問題は量ではないのかもしれません。「幸せ」という一つの言葉が、実は、まったく違う二つのものを指しているからです。

「幸せ」という言葉に、隠れている二つの構造

一つは、追いかける幸せです。何かの状態を手に入れることで得られる幸せ——お金、地位、評価、安心。これらは「持っている状態」なので、時間とともに移ろいます。慣れれば当たり前になり、また足りなくなる。だから、その状態を保つには、たえず補充し続けなければなりません。

もう一つは、満ちる幸せです。何かを手に入れたからではなく、いましていること、いま関わっていること、そのものの中で、ふっと満たされる。友だちと話していて、時間を忘れていた。夢中で手を動かしていて、気づいたら日が暮れていた。あの、その瞬間それ自体で足りている感覚です。

同じ「幸せ」でも、この二つは、構造がまるで違います。

追いかける幸せは、構造上、満ちない

追いかける幸せの厄介なところは、どれだけ手に入れても、満ちるようにはできていない、という点です。

手に入れた状態は、移ろいます。だから、満ちたと思ったそばから、また薄れていく。その薄れを埋めるために、次を追う。次を手に入れても、また薄れる。この形の幸せは、性質として「もっと」を要求し続けます。だから、いくら量を増やしても、満ちた状態にはたどり着けません。満たされないのは、あなたの努力や達成が足りないからではないんです。追いかける形の幸せそのものが、満ちる終点を持たないようにできている。

満ちる幸せは、量ではなく、完結する

一方、満ちる幸せは、積み上げる必要がありません。

その瞬間に、それ自体で完結しているからです。友だちと過ごした一時間は、次の何かのための準備ではなく、それ自体で足りていた。だから「もっと積まなければ」という不足が、そもそも生まれません。追いかける幸せが「足りない、を埋め続ける」ものだとすれば、満ちる幸せは「その場で、足りている」ものです。向きが、逆なんです。

「足るを知る」は、諦めではない

老子は、「足るを知る者は富む」と言いました。この言葉は、しばしば「欲を我慢して、今あるもので満足せよ」という、諦めや禁欲の教えとして読まれます。でも、それは少し違うのかもしれません。

足るを知るとは、欲望を抑え込む話ではなく、幸せの重心を、追いかける側から満ちる側へ移す、という話だと読むと、すっと通ります。小さく我慢して生きよ、ではない。追いかけても満ちない構造から降りて、その場で満ちられる関わりのほうに、重心を戻す。これは、貧しくなることではなく、いちばん確かな豊かさのありかに気づくことです。

だから、問いを変えてみる

満たされない、と感じるとき、私たちはつい「どうすれば、もっと手に入るか」と問います。でも、その問いは、追いかける幸せの中をぐるぐる回るだけかもしれません。

問いは、こう変えられます。この一日の中に、それ自体で足りていた瞬間が、どれだけあっただろうか。次のための時間ではなく、その時間そのものが満ちていた瞬間が。追いかけるのをやめる必要はありません。ただ、満ちる瞬間のほうにも、ときどき目を向けてみる。数えるものが変わると、豊かさのありかが、少しずつ移っていきます。

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