「本当に好きなことなら、お金や役に立つかどうかなんて関係なく、それ自体が楽しいはずだ」。
どこかで、こんな考えを受け取っていないでしょうか。純粋に好きなこと——誰のためでもなく、何の役にも立たなくても、ただやりたくてやること。それこそが「本当の好き」で、それ以外は、どこか不純なもの、妥協したもの、というイメージです。
この考えを持っていると、あることに苦しみます。自分がいちばん力の出るのが、「誰かの役に立っているとき」だった場合です。人に頼られて応えるとき、困っている人の力になれたとき、いちばん充実する。でも、それは必要に迫られてやっていることだから、純粋な好きではない——そう感じて、自分には本当の情熱がないのかもしれない、と思ってしまう。
この記事で言いたいのは、その心配は要らない、ということです。「好き」には、実は二つの形があって、そのどちらもが、まぎれもなく本物だからです。
好きには、二つの形がある
一つは、それ自体が面白い、という形の好きです。誰かに求められたからでも、何かの役に立つからでもなく、やっていること自体が楽しい。子どもが時間を忘れて砂を掘り続けるような、理由のいらない没頭です。
もう一つは、誰かの必要に応えること自体に、意味が立つ、という形の好きです。目の前の人が困っている。それに応えられたとき、相手の表情がふっと変わる。その手応えそのものが、自分にとっての充実になっている。料理をつくる人、人の相談に乗る人、誰かの体を手当てする人。この形の好きで、いきいきと働いている人は、たくさんいます。
片方を、本物として上に置かない
ここが肝心なところです。二つ目の「役に立つ好き」は、一つ目の「純粋な好き」の、格下げ版ではありません。
私たちはつい、「誰のためでもない好き」のほうを高尚だと感じ、「役に立つからやる好き」を、どこか不純なものとして下に置きがちです。でも、その序列は、思い込みです。人の必要に応えることそのものに、心が動く。それは立派に、それ自体が目的になっている好きであって、何かのための手段ではありません。応答することが、そのまま喜びなんです。
見分ける線は、遊びか仕事か、ではない
では、生きた好きと、枯れた好きは、どこで分かれるのでしょうか。
線は、「遊びか、仕事か」ではありません。「役に立つか、立たないか」でもありません。線が引かれるのは、その行為に、それ自体としての意味が立っているか——それとも、自分が意味を感じないまま、ただの手段になってしまっているか、のところです。
砂遊びも、「何かのため」に置かれた瞬間に、色を失います。人の役に立つ好きも、相手の顔が見えなくなり、こなすべき件数と報酬だけが残ったとき、同じように枯れます。形はまるで違うのに、死に方は同じなんです。逆に言えば、それ自体に意味が立っているかぎり、どちらの形も、ちゃんと生きています。
だから、比べなくていい
だとすれば、「自分の好きは、純粋な好きじゃないかもしれない」という悩みは、そもそも問いの立て方がずれています。
問うべきは、それが役に立つ種類かどうかではありません。いま自分がしていることに、それ自体としての意味が、まだ灯っているかどうか、です。人の必要に応えることに心が動くなら、それは薄めた情熱ではなく、あなたの好きの、正真正銘の形です。まずは、それを下に置くのを、やめてみる。


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