「やりたいこと」が見つからないのは、あなたのせいじゃない

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「やりたいことは何ですか」と聞かれて、言葉に詰まる。

就活でも、面談でも、キャリアの相談でも、この問いは繰り返し向けられます。すらすら答えられる人もいる。でも、答えようとするたびに、心のどこかがすっと冷える人も、少なくないはずです。自己分析をやってみる。本を読む。診断を受ける。それでも、これだ、と言い切れるものが出てこない。そして、静かにこう結論します。自分には情熱が足りないのかもしれない、軸がないのかもしれない、と。

この記事で言いたいことは、一つです。それが見つからないのは、あなたに何かが欠けているからではありません。理由は、探している場所と、探し方のほうにあります。

「見つからない」という言葉に、隠れている前提

「やりたいことが見つからない」という言い方には、実は一つの前提が、こっそり紛れ込んでいます。やりたいことは、どこかに完成した形ですでに存在していて、自分はそれをまだ発見できていないだけだ、という前提です。

失くし物のイメージです。どこかに落ちた鍵のように、自分の「本当にやりたいこと」も、心の奥か、世界のどこかに、すでに在る。あとはそれを見つけ出すだけ。この前提が正しければ、見つからないのは、探し方が足りないか、探す人の能力の問題、ということになります。だから人は、見つからない自分を責めます。

けれど、やりたいことは、たぶん、そういう種類のものではありません。

やりたいことは、関わりの中で立ち上がる

認知科学者の Vervaeke は、私たちにとっての「意味」や「大事さ」は、選択肢の中から選ぶものではなく、実際に何かと関わっている、まさにその最中に立ち上がってくるものだ、と言います。

これは、経験のある人には腑に落ちる話だと思います。ある仕事に就く前から「これが天職だ」と分かっていた、という人は、そう多くありません。やってみて、誰かと関わって、手を動かしているうちに、いつのまにか「これ、けっこう好きかもしれない」が育っていた。順番が逆なんです。関わったから、意味が立ち上がった。先に完成した「やりたいこと」があって、それに出会ったのではありません。

だとすれば、机に向かって腕を組み、自分の内側だけをのぞき込んでも、やりたいことが出てこないのは当たり前です。それは、まだ関わっていない何かとの間に生まれるものなので、頭の中をどれだけ探しても、そこには置かれていない。探しても見つからないのは、あなたの探索が甘いからではなく、探している場所に、そもそも無いものだからです。

それでも、小さくは灯っている。ただ——

ここで、もう一つの壁があります。

実のところ、日々の中で、小さな「これ、いいな」は、けっこう立ち上がっているんです。何かをしていて時間を忘れた。頼まれごとをやってみたら、思いのほか面白かった。誰かがやっているのを見て、理由もなく気になった。こうした小さな信号は、たえず点滅しています。

問題は、その信号が灯った瞬間に、それを握りつぶす癖を、長い時間をかけて身につけてきたことです。「でも、これは役に立たない」「食べていけない」「人に説明できない」。灯りかけた火に、こうした問いをすぐ浴びせて、消してしまう。

私たちは長いあいだ、成果につながるもの、数字で示せるもの、理由を言えるものを上等とし、そうでないものを後回しにするよう仕込まれてきました。その結果、「理由はないけど惹かれる」という手応えは、頼りにならないもの、大人がいつまでも握っていてはいけないもの、として扱われるようになった。惹かれる感覚を拾うセンサーのほうが、使われないまま鈍っていったのです。だから、やりたいことが見つからないと感じる人の多くは、感じる力が弱いのではありません。立ち上がっているものを受け取る回路を、社会の側が長く塞いできた、というほうが実情に近いんです。

自己分析が、してくれること・してくれないこと

やりたいことを探す方法は、世の中にたくさんあります。自己分析、適性診断、キャリアの棚卸し。これらが無駄だというのではありません。自分がこれまで何にエネルギーを注いできたかを整理し、言葉にする助けには、たしかになります。

ただ、これらの多くは、「すでに自分の中にあるものを、取り出して並べる」作業です。棚の中身を整理してくれる。けれど、まだ関わっていない何かとの間に立ち上がる、これから生まれるものについては、棚を見ても分かりません。過去の棚卸しは、未来の関わりを指し示せない。どれだけ丁寧に自分を分析しても「やりたいこと」に行き着かないことがあるのは、やり方が下手だったからではなく、その方法が見ている場所が、少し違うからです。

それは、見つけるより、気づくに近い

やりたいことは、たいてい、大きな「天職」の顔をしてやってきません。もっと地味で、小さな形をしています。

やっているうちに、気づいたら日が暮れていた。終わったのに、なぜかもう少しやっていたい。誰かのそれを見て、理由もなく心が動いた。こうした小さな手応えのほうが、大文字の「情熱」より、ずっと正直です。そしてこれらは、どこかから見つけてくるものではなく、すでに起きていたことに、あとから気づくものです。あるいは、忘れていたものを思い出す、と言ったほうが近いかもしれません。子どもの頃、誰に言われるでもなく夢中になっていたことのほうに、案外その手応えは残っています。

探すのをやめて、目を戻す

だから、やりたいことが見つからないと感じるとき、必要なのは、もっと必死に探すことではないのかもしれません。

探すのを少しだけやめて、いま自分が実際に触れているものの中で、小さく灯る信号のほうに、目を戻してみる。役に立つか、食べていけるか、説明できるか。その問いを浴びせる前に、灯ったという事実だけを、いったんそのままにしておく。

それは、あなたに情熱が足りない、という話ではまったくありません。灯りは、たぶん、もう点いています。ずっと、それを消す側に立たされてきただけです。まずは、消さないでいる。それだけで、見え方は少し変わりはじめます。

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